説教

                   

 

 

211024 聖日礼拝説教   

 マルコによる福音書 102節~12節 「神が結び合わせてくださった

 

 今日の箇所には、イエス様の周りに集まって来ていた大勢の群衆の姿があります。人々は、御言葉を求めていました。それはイエス様の口から出る一つ一つの言葉に、力があったからです。それを聞くと、何かに捕らわれたり縛られたりして固く縮こまった心が温められ、柔らかくされ、自由されるのです。イエス様は言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)。この朝、イエス様は御言葉によって、わたしたちの心をも温め、和らげて、「こだわり」や「思い込み」から解き放ってくださいます。
 さて、御言葉を求める大勢の群衆の中に、イエス様を「試そう」として、近寄って来たファリサイ派の人々もありました。ここでは「夫が妻を離縁すること」について、イエス様がどう言われるかを尋ねたのです。彼らは聖書にしるされている律法を研究する人たちであり、また教師たちですから、「離縁」ということについて律法ではどのように定められているかを良く知る者として、イエス様を試験するような積もりでいます。そして、少しでも間違ったことをイエス様が口に出されたならば、やり込めて大勢の人々の前でその評判を落としてやろうと狙っていたのでしょう。けれどもイエス様は、彼らの意図を御存知でありながら、無視することも怒ることもなく、彼らに向き合ってやり取りをなさるのです。
 律法には「離縁」について、次のように書かれてあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。離婚の権利は当時、夫にのみ認められていて、妻には認められていませんでした。とても男性に都合良くできた決まりのように見えるのですが、イエス様は、この掟をモーセが書いたのは、人の頑なさの故だったのだと仰います。「結婚」は、天地を創造された神様によって、男と女が結び合わされ一体とされる神の御業であるのに、人にはそれを認めることができなくなることがあります。神様が結び合わせてくださったという目には見えないその事実を大切に考えることができなくなってしまい、心を移した他の女性と結び付こうとして「離縁状」を書く、ということが起こっていました。モーセの律法に離縁状の定めがあるのは、結婚という結び付きの中に神様の御業、神様の恵みを見ることができないわたしたち人間の頑なさのしるしであると言えるでしょう。わたし自身のことで恐縮ですが、結婚式の司式をする際、誓約の言葉を読みます。それはこうです。「あなたはこの姉妹と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命のかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか」。わたしはこれを読む度に、神様にも妻にも、堂々と顔向けできない自分自身であることを思うのです。
 健やかな時も、病む時も、いつでもこの約束を果たすことは大変難しい課題です。いつも失敗してはやり直す。その繰り返しをしながら少しずつ「一体」としていただいていることを学んでいるのかも知れないと思います。けれども場合によっては、神様による結び付きであることが分からなくなるだけでなく、お互いの忍耐も限界を超えてしまい、離れねばならないことも起こってきます。その痛みの強さ、悲しみの深さは、経験した者でなければ分からないことでしょう。わたしたち人間、男も女もそれぞれに「心が頑固」な者であり、クリスチャンとなっても、神様の御業、神様の恵みを見ながら歩むことの難しさを感じながら生きています。けれども、わたしたちがそのような者であるからこそ、わたしたちの頑固さ=罪を引き受け担われて、イエス様は十字架に掛かってくださいました。穏やかなガリラヤ湖畔の丘の上や、カファルナウムの町でイエス様は人々を愛し、敬い、慰め、助けて歩まれました。けれどもそのような時だけでなく、十字架の上の激しい苦しみのただ中にあっても、イエス様こそはわたしたちを愛し、敬い、慰めを祈ってくださいました。わたしたちはこのイエス様を主と信じ、従う者たちです。失敗しても転んでも、何度でも立ち上がります。それはなぜか? わたしたちは洗礼によって、絶対に罪を犯すことのないイエス様と結ばれた者たちであるからです。イエス様は罪を犯されません。誰が離そうとしても、イエス様はわたしたちを離縁することをなさらないのです。神様が結び合わせてくださったイエス様との命のつながりの中にあることを感謝しながら、ここから新しく歩み出していきましょう。

 

 

211017 聖日礼拝 信徒伝道週間奨励 阿部直斗兄  

 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 516節~22節 「恵みの証し

 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」                   テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 516節~22

 十年ほど前に洗礼を受けて、聖書を戴いた頃に目に付いた言葉でした。
 以前の私は沢山迷い、悩んで暮らしていました。当時は忙しく働いていて、シフトが不安定で体調を崩したり、人間関係や将来への漠然とした不安や東日本大震災に関するニュースや世間の雰囲気で、まるで何も考えられなくなりました。祈ろう、私にしたいことは、出来ることは、祈ることだと感じて北広島教会に通い始め、一年ほどで受洗に至りました。
 教会に通ったり聖書について学んでいくうちに、カトリックの幼稚園で教わった記憶が蘇ったり嬉しいことがありました。今思えば私にとってあの場所はエデンの園ようで、聖書のことを教わったり聖歌を歌ったり、聖劇をやった記憶があります。天地創造やアダムとイヴの誘惑や、イエス様の誕生など記憶に残っています。私は神様に創造されたひよこの役でした、二つ年上の兄はヨセフさまの役をやっていました。
 そうして戴いた聖書はとにかく読みづらくて、解りづらくて苦労しました。分厚いページをめくるうちに、神様は私に何を求めておられるのか、考えるようになりました。福音書や書簡の、求めなさい、与えなさい、そしていつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい等の言葉が、聖書の持つメッセージだと感じるようになりました。そうして、日々祈るようになり、物の考え方が少しシンプルになった気がします。
 三年前から合唱団に参加して、神様と御子イエスと聖霊に感謝して、聖チェチェーリアのための荘厳ミサ曲集を演奏しました。チェチェーリア、聖セシリアは音楽の聖人です。サンクトゥス、感謝の賛歌を歌って、ステージのライトを受けて、お客様から拍手を戴きました。その時なんだか神様が会場を上から観てくださってる気がして、やっといくらか感謝を形に出来た気がしました。催し物を終えた時に、どこか懐かしい気がするのは、子ども時代の発表会等で親が観に来てくれた記憶が蘇れるからだと思います。
 神様という保護者、お父さんが来ている。それは嬉しいようなお節介なような気がします。
 皆様は保護者参観日や運動会など覚えていらっしゃいますか、特に小さい方はよくご存知だと思います。残念ながら今現在は合唱団はコロナウィルスが原因で休止中ですが、この時期を忍んで、いつかまた歌える日を願っています。今度の演奏会の曲は、ヘンデルのメサイアです。教会では主が来られるのを待ち望むと祈りますが、神様は遠くにも近くにもおられるような、不思議な存在だと感じました。
今最も願うことは、パンデミックの収束と、それぞれが今待ち望んでいることの再開、そしてなにより主の御守りです。この機会を感謝して、敬愛する兄弟姉妹、菊地先生、神様に感謝の証として捧げます。そのほか言い尽くせず書ききれない感謝を思い巡らせながら、喜びのうちに結びとさせて頂きます。

 

 

211010 聖日礼拝説教  

 マタイによる福音書 2215節~22節 「主は真実な御方

 

 「人は、その人が見つめるものに似てくる」と言われますが、ペットのわんちゃんと飼主がよく似ていたり、夫婦が長いこと互いに見つめ合ううちにだんだんと「似たもの夫婦」になっていく、ということが確かにあるものですね。わたしたちは、イエス様はどういう御方でいらしたのか、聖書を通し、また御言葉の説教によってイエス様を見つめる歩みを重ねながら、少しずつ、じわじわと、イエス様に似る者となっている(これからさらになっていく)ことを期待していきたいと思っています。イエス様について今日の箇所ではこのように言われています。「あなたはたいへん正直なお方で、だれをも恐れず、また人をえこひいきもなさらず、いつも堂々と真理を教えておられます」。この言葉はイエス様を陥れようとした人々の側から出た発言で、彼らからすれば歯の浮くようなお世辞そのものでありましたが、実にイエス様という御方の姿を正しく伝えてくれていると思うのです。イエス様は正直で自由。人を恐れずえこひいきもなさらない。いつも堂々と真理を語る。まさに、主は真実な御方なのです。
 さて、この時イエス様は神様を礼拝する神殿で人々に語っておられました。聞いていた多くの人たちが、その御言葉と御姿に心を捉えられている一方で、神様の掟=律法を民衆に教える立場であったファリサイ派の人たちは、イエス様のことを苦々しい思いで見つめていました。けれども彼らは、イエス様を慕う大勢の人々を恐れていましたので、その場でそれ以上手も足も出すことができず、神殿から出て行って、イエス様の言葉尻をとらえて罠にかけようと知恵を絞ったといいます。その結果、ファリサイ派の人々は門弟たちを「ヘロデ派」の人々と一緒にイエス様のところに遣わして、自分たちイスラエルを支配するローマ皇帝に税金を納めることが律法に照らして正しいのか、間違っているか、という質問をぶつけることにしました。元々ファリサイ派は律法を重んじる人々で、「ローマ人をはじめ外国人は皆汚れた者たちである」、として忌み嫌っており、仕方なくローマ皇帝への税を納めておりました。他方ファリサイ派の門弟たちと一緒に遣わされた「ヘロデ派」は、ローマ皇帝の支配の中で自分たちヘロデ王家の権力を保ち続けることを願っていましたので、ファリサイ派とは逆に、ローマへの納税に賛成していたのです。
 イエス様の口から発せられるのは真理の言葉です。イエス様は「真理はあなたがたを自由にする」と言われました。嘘偽りはわたしたちを恐れと疑いで縛り付けますが、イエス様の言葉によってわたしたちは安心し、神様への信頼を取り戻すことができるようになります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、わたしたちへの深い愛を込めて語られるイエス様の言葉を聞くときに、心の内に愛が満ち、恐れが締め出されて、自由にされるのです。イエス様がここで彼らに対して、「皇帝に税金を納めるのは律法に適っている」と言えば、「ローマの手先」「偽メシア」として民衆の信頼を失うことになりますし、ヘロデ派の目の前で「律法に適っていない」と言えば、「皇帝に反逆する者」とされて捕らえられてしまいます。けれどもイエス様は律法に縛られておりません。律法によって罠にかけよう、捕らえようとする彼らを御言葉によって目覚めさせなさるのです。イエス様は彼らに向かって、真理の言葉を語られました。
 ローマ皇帝への税金に納めるデナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれています。イエス様はそれを確認させて、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」言われました。その銀貨の鋳造責任者・所有者はローマ皇帝です。それは皇帝のものなのだから、皇帝に返すのが自然です。それに対して、ユダヤ人にはエルサレム神殿のために納めるべき「神殿税」が課せられていましたが、それに用いる「シェケル銀貨」の表には「イスラエルのシェケル」、裏には「聖なるエルサレム」と刻まれていました。「神のものは神に」と言われたとき、これを聞いた彼らは神殿税のためのシェケル銀貨のおもて・うらを思い浮かべたことでしょう。彼らはこの答えに驚き、返す言葉もなく、すごすごとイエス様の前から立ち去ったのでした。けれども、「これは、誰の肖像と銘か=それには誰の像と名が刻まれているか」と問いながら、イエス様は、銀貨に留まらないで、彼ら自身の存在に目を向けるようにと促し、招いておられたのではないでしょうか。「あなたを御造りになった方はどなたか。あなたを所有しておられるのはどなたか。あなたには誰の肖像と銘が刻まれているのか」。創世記にはこう記されています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」(1:26) 十字架の上で御自身をささげ、わたしたちを罪から贖いだしてくださったイエス様が、創造主の肖像と銘が刻まれているわたしたちであること、わたしたちは父なる創造主によって造られ、その御手の中に所有され、守られているのであることを、御語りくださっています。真実な主のものとされていますことを感謝して歩み出しましょう。

 

 

211003 聖日礼拝説教  

 マタイによる福音書 2128節~32節 「父なる神様の望み

 

 福音書を見ますと、イエス様の周りには色々な人たちの姿があります。十二弟子はいつもイエス様の一番近くにいて御言葉を聞いていましたし、そのそばでイエス様と弟子たちに付いて歩いた「徴税人」や「娼婦」という人たちも多くいました。一方で、そのように多くの人々から慕われていたイエス様と弟子たちに向かって怒りを燃やしながら、隙あらばイエス様を捕らえて殺してしまおうとしていたのが当時の宗教指導者たちで、「大祭司や祭司長」「ファリサイ派の律法学者」「サドカイ派」と呼ばれています。また、その外側から遠巻きにイエス様を眺めているような人々、チャンスがあればイエス様の御言葉を聞きたいと願っている大勢の「群衆」もいたことが分かります。どの人々もイエス様の目から見ると皆同じように父なる神様の子どもたちであるのです。けれども皆が同じように父なる神様の望み通りにしているか、というとそうではないのだ、とイエス様は仰いました。

 今日のたとえ話は、御自分に敵対してくる祭司長や民の長老たちに向けてイエス様が語られたものです。彼らは神殿の境内で人々に教えておられたイエス様に近寄って来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と言いました。それは、「この神殿で教えるならわたしたちの前にへりくだれ。わたしたちの許可を得ずにここで教えることは許さないぞ」、ということです。もともと彼らは神殿を管理する務めを担う者たちでしたが、いつの間にか大きな勘違いをして、神殿を支配する者、さらに言えば「神様のような者」になってしまっておりました。イエス様が御覧になればそれは何と哀れな姿だったことでしょうか。この神殿は、天地を造られた神様を礼拝するところです。ここにいる者は、たとい「祭司長」であれ「民の長老」であったとしても、皆等しく、父なる神様の子どもたちです。それなのに、息子に過ぎない者たちが父親のように振る舞って、人々の支配者を気取っている。そればかりか、人となられた神様御自身でいらっしゃるイエス様に向かって、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」、と威張っているわけです。

 わたし自身のことを振り返りますと、息子として父の言うことを聞かなかったり、逆らったりすることがありました。旧約聖書の十戒の中には、「あなたの父と母を敬え」、とありますが、それはわたしたちが父と母の権威を認め、敬って従う。そうすることで子どもとして守られ、幸いを得ることができるからでしょう。けれども父を父と認めず、その願いを無視して逆らい続けることで、わたしは胸の奥に安心や喜びではなく、心苦しさや悲しみを募らせていたように思います。聖書に言われる「罪」は、肉親に対する「反抗期」と似た、父なる神様の権威に逆らって反抗する姿だ、と言っても良いでしょう。反抗している間は、安心や喜びではなく、心苦しさと悲しみが付いて回ります。イエス様に近づいて来た彼らについても、その内側には焦り、苛立ち、怒り、悲しみといった負の感情が渦巻いているように見えます。イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。

 福音書にはイエス様が徴税人や娼婦たちと食事を共にされた場面が出てきますが、それはとても賑やかで和やかな、安心と喜びが流れている場所です。その場を思い浮かべるとき、肩の力が抜けてきて、本当に嬉しい思いにならないでしょうか。徴税人も娼婦たちも、父なる神様の願い通りには生きられない悲しみを抱えていたときに、イエス様の言葉を聞きました。逆らい続けている自分に対する天の父からの愛の言葉として、誰よりも自分のことを心配し、自分が子であることを喜んでいてくれる父親からのメッセージとして、彼らはイエス様の言葉を信じ受け入れたのです。「ヨハネが来て示した義の道」とは、御自分の中に、わたしたちが抱える「父なる神様への反抗」、「従いたくても従い得ない弱さ」という人間のありのままを丸ごと引き受けて十字架に死なれたイエス様のことであり、信じる者の罪を赦して天国の素晴らしさを味わう者にしてくださるイエス様のことであります。たとえ話の中で兄は、「後で考え直して」出かけました。祭司長や民の長老たちは徴税人や娼婦たちがイエス様を信じて安心し、喜んでいる姿を見ています。後からでも考え直すように、義の道、天国への道、イエス様を信じるようにと彼らも招かれているのです。わたしたちは他の人たちよりも一足早く、イエス様を信じることができました。周りには真理を求めながら、イエス様にまだ出会うことのできていない方々が大勢おられますが、わたしたちの交わりを見て、「徴税人や娼婦たち」が味わっていた安心、喜びを感じていただけたら幸いです。続く聖餐式の中でイエス様の御体と御血潮、救い主の素晴らしさをご一緒に味わい、この週出会う方々に、わたしたちを通してイエス様の愛、喜び、平安が流れていきますように。

 

 

210926 聖日礼拝説教  

 マタイによる福音書 201節~16節 「約束を果たす神様

 

 

 今日の聖書を読みながら、わたしは学生時代にしていた建設現場でのアルバイトを思い出しました。朝8時に現場に入り、夕方5時まで働いて「一日8千円」です。たまに少し早仕舞いするときがありましたが日当は同じですので、そんな日は「やった、得した!」と喜んだものでした。さすがに午前中で仕事が終わってしまうような日には半額となりましたが、働いた分に見合うお金を頂くというのは当然のことだと納得していました。けれどもイエス様は、父なる神様がそのようなこの世の「常識」には当てはまらない御方であることを、今日のところで明らかにしておられます。

 イエス様は父なる神様のことを、ここに出てくるぶどう園の主人のような方として、弟子たちに語られました。主人は夜明けに出かけて行って、「一日1デナリオン」の約束で人を雇いますが、その後、9時、12時、3時と同じようにしていき、そしてさらに夕暮れ時の5時頃にも出て行って、仕事に就けないで立っていた人々に声を掛け、自分のぶどう園に招くのです。数えてみれば、夜明けに雇われた人たちは、おそらく10時間は働いたことでしょう。その次の人たちはそれぞれ大体7時間、5時間、2時間ほど働きました。そして一番遅く、夕方5時過ぎからぶどう園に来た人たちは、多分1時間も働いていなかったのです。ところがこの主人は、ほとんど働くことの出来ない人々を夕方5時に雇ったというだけでも不可解ですのに、その最後に来た人たちから始めて、最初に来た者まで順番に、デナリオン銀貨を渡していきました。夜明けから丸一日働いてへとへとになった人たちはその様子を見ながら、先ず自分たちからでなく、最後に来た人たちから給料が支払われたことにとても面食らったのではないでしょうか。はじめからここにいて目一杯頑張った自分たちが後回しにされるのです。そしてさらに、こんなに頑張った自分たちが、1時間しか働いていない人々と同じ1デナリオンしかもらえないとなれば、「あの人たちは、たった一時間働いただけなのです。なのに、この炎天下、一日中働いた自分たちと同じに払ってやるんですか?」と主人に不平をぶつけるのも当然と思えます。

 すると主人は、口々に不平を言っている中の一人に向かって、「一日1デナリオン」の約束を思い起こさせ、夜明けから働いた者にも、少ししか働かなかった者にも、このぶどう園に来た者たちには、だれにでも分け隔てなく払ってやりたい、という気持ちを伝えました。ぶどう園は教会、主人は神様です。教会に導かれたすべての人は、長くいる人も、そうでない人も皆、神様から同じ「一日1デナリオン」、すなわちそれぞれが同じ「罪の赦し」を頂きます。けれどもその素晴らしさ、有り難さが分からなくなってしまい、不平を言うようなとき、神様はこの主人のように、「その中の一人」であるこのわたしに向かって、「友よ」、と語りかけ、約束を思い起こさせてくださるのです。「長いこと頑張った人がたくさん頂ける」というのがこの世の常識ですが、父なる神様は、招きに応えてぶどう園に来た人には誰にでも、同じように善くしてくださる御方です。

 ぶどう園の主人は、「わたしの気前のよさをねたむのか」、と言いました。これは、「わたしの『善さ』があなたの目には『悪』と映るのか」、と訳しても良い言葉です。不平を言う彼らの目には主人の『善さ』が『悪』と見えている。それは彼らが、「わたしたちはこれだけ頑張ったのに」、「あの人はあれだけしかやってないのに」、と人を見て、自分と比べるところがあるからです。ほとんど働きのない人にも、十分働いた者と同じだけ支払ってあげるのが、主人の『善さ』であるのに、わたしたちの目にはそれが「悪」に見えてしまうとしたら、本当に悲しいことです。けれども神様は、そのようなわたしに向かっても「友よ、」と語りかけて「1デナリオン」の尊さを思い起こさせてくださいます。ここにいるわたしたち一人一人は同じ赦しの中にあります。人と自分を見比べて得意になったり落ち込んだり、怒りを抱いて人を裁き、神様に不平を言ったりするこのわたしを赦すために、神様は御自分の独り子を犠牲として十字架に掛け、その命と引き替えにされたのです。弟子のペトロはイエス様を裏切るという、拭い去れないような深い罪を犯しましたが、赦された確信と喜びの中でこのように言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒言行録2:38-39)。「1デナリオン」どころではありません。これは地球よりも、全宇宙よりも重い神様の独り子の命が掛かった約束の言葉です。ぶどう園に招かれた人々と同じように、「あなたを赦す」という約束の1デナリオン銀貨を一日一日握りながら、この一週間を生かされて参りましょう。

 

 

210919 聖日礼拝説教  

 マタイによる福音書 1916節~22節 「立ち去る者ではなく

 

 

 今日の箇所には、一人の青年がイエス様に「永遠の命」を求めて近寄って来た場面が記されています。イエス様に向かって、「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いました。この青年は、これまで真面目に神様を信じ、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」、という神様の掟=律法を守り行なって、その歩みの中で「善いこと」を積み重ねてきました。しかし彼の内側には、“永遠の命を受けた実感”とでも言いましょうか、まことの神様に受け入れていただいているという、深い平安・安心感が無く、その心には神様に対する飢え渇きが募っていたのです。イエス様はそんな彼に、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」、と仰って、その目を「善いこと」から「善い方」へと向け直そうとなさいました。「『善いこと』から『善い方』へ心の向きを変えなさい」。今日イエス様はわたしたち一人一人にもそう仰っています。

 まことの神様は「善い方」である。ダビデは詩編の103編で心の底から歌いました。イスラエル二代目の王、ダビデ王は、大きな罪を犯し、苦労もした人でしたが、その歩みを通して「まことの神様は『善い方』である」と知ることができました。彼は歌っています。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる」(103:1-5)。この後もさらに続きますが、ダビデは、主なる神様に心を向け、目を向け、言葉と声を向けて、全身で「主は善い方!」とほめたたえて歌っているのです。

「善いこと」を見つめながら、「そういうことはみな守ってきました。(さらに)どんな善いことをすればよいのでしょうか」、と言う青年。彼は、善いことを積み重ね、善い人として生きることに疲れてしまっているように見えます。どれだけやっても十分ではない。どんなに頑張っても神様から合格点をいただけない。それはそうでしょう、神様は全き御方であって、その神様の律法=掟も欠けたところのない完全なものなのです。そうでありますから、掟を守り、律法を行って神様に受け入れていただこうとする生き方には、少しの欠けもまた曖昧さも、見逃されることはありません。「そういうことはみな守ってきました」、と青年は言いますが、神様は彼の心を御覧になっています。外側に表われた目に見える善い行ないが、本当に神様を愛する真心によって為されたかどうか。そこに少しの誤魔化しも、損得の勘定もなかったかどうかが問われるのです。イエス様は仰います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・それから、わたしに従いなさい」。先ほど彼は、「隣人を自分のように愛しなさい」との掟について、「守ってきました」と答えましたが、ここでイエス様から、本当に隣人を自分のように愛するとはどういうことかを問われているのです。自分の持っている物を売り払って、持っていない人々に只で与えなさい。自分を愛するように隣人を愛するとはそういうことですよ、と。

 青年はイエス様の言葉を聞いて「悲しみながら立ち去った」とあります。彼は、永遠の命が、「善い行い」と引き替えにして手に入れることの出来ない、高価なものであることが分かりました。「善いこと」の報いとして神様に受け入れていただこう、永遠の命を得よう、とする道は閉ざされました。けれどもイエス様は、彼が自分の正しさに頼ることを断念するほかないその場所で、尚そこに踏み留まってほしいと願われたのではなかったでしょうか。残念ながら青年は、「善いこと」から目を転じて「善い御方」イエス様を仰ぐことが出来ませんでした。永遠の命を持っておられる御方を、彼は仰がずに立ち去ったのです。わたしたちは今日、どうするのでしょうか。聖霊の御助けをいただいて、目の前に立っておられる「善い御方」に目を注ぎましょう。御自分の持っておられたすべてを注ぎ、隣人を自分のように愛して歩まれたイエス様を仰ぎましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)。イエス様は十字架の上で肉を裂き、血を流されて、持ち物すべてを売り払うように御自分の命を貧しいわたしたちに与えてくださいました。永遠の命とは、この「善い御方」の中にあり、この御方が与えてくださる命です。イエス様を信じ、御言葉を聞き、この御方の許に留まることの中で、昨日も今日も明日も、変わることなくわたしたち与えられる命を生き、主イエス様をほめたたえましょう。

 

 

210912 聖日礼拝説教  

 マタイによる福音書 1821節~35節 「赦されて生きる

 

 

 イエス様は今日の箇所で、「赦す」ことについて教えておられます。使徒信条でも告白しているように、「赦し」はわたしたちの信仰の中心にあるものです。

 ペトロがイエス様に質問したのは、赦しの限度はどれ程のものか、ということでした。わたしたちも「堪忍袋の緒が切れる」と言いますが、ペトロは、「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」、つまり、「堪忍袋の大きさはどれ位であるべきか」、とイエス様に尋ねています。それに対してイエス様は、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」、数えることができないほど、限りなく赦しなさい、と仰いました。ペトロは弟子の誰かに対して、「もうこれ以上赦せないぞ!」という感情を抱えていたのではないか、そしてそれはわたしたちが先週の歩みの中で葛藤してきたところでもあるのではないでしょうか。家族や友人をはじめ、関わりのある誰かに対して抱くマイナスの感情は、わたしたちを苦しめますし、それが昂じると体の健康を壊してしまうこともあるほどです。ですからイエス様はここで、「赦せない」という思いを溜め込む堪忍袋をどの位大きくするか、ということではなくて、誰かを赦す、という前に、わたしたち一人一人は「赦されている」者たちなのだということを教えておられるのです。

 「天の国は次のようにたとえられる」と仰って、イエス様はわたしたちの目を「赦せない誰か」から「わたしを赦す神様」へと向けられます。「ある王」に対して「家来たち」は皆、借金をしているのですが、その中でも莫大な額を借りている一人の家来がおりました。借金の総額は「1万タラントン」で、これは今のお金に換算すると「6千億円」にも上ります。王は家来に「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済せよ」、と命じます。返せるはずもないのですから、持っている物をすべて売り、妻も子も、そして自分自身も売れ、つまり奴隷になれ。それ以外にあなたの生きる道はない、ということです。家来はひれ伏して「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言うのですが、「6千億円」は人がどんなに頑張っても一生の間に稼げる額ではありません。絶対に返せない負債であるにも関わらず、「出来ます」、「やれます」、「きっと全部お返しします」と必死に願うこの家来に対して、主君はどうしたかというと、「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」やったのです。

 皆さん、「王=主君」に例えられている天の父なる神様は、「家来」すなわち神様を信じるわたしたち人間に向かってどれ程の憐れみを注いでおられることでしょうか。それはわたしたちの常識を越えています。家来は逆立ちしても返すことの出来ない「6千億円」の借金を、「待ってもらえるならばお返しできます」と言い張りました。少しずつでも返して行ってやがては完済できる、というような金額ではないにも関わらず、必ず返せる、と思っている。彼は自分の借金がどれ程大きなものであるかを分かっておりません。主君に対する罪の深さを自覚することも出来ていません。本当に哀れな姿です。けれどもそれを分かっていながら、主君は家来の借金を帳消しにしてやりました。主君、すなわち神様は、そんな家来を見つめ、「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」やる御方なのです。

 主君に対する負債の大きさも、それを帳消しにしていただいた赦しの素晴らしさも自覚しないまま、哀れな家来は自分が「百デナリオン(=今のお金で約100万円)」を貸している仲間に出会います。彼は「どうか待ってくれ。返すから」、と懇願する仲間に同情を示すことがなく、赦さず、牢に入れてしまいました。彼は借金を帳消しにしてもらった後も、主君に対する思いが変わりませんでした。相変わらず「『6千億円』」は少しずつでも返していって、やがて完済できる」と心の中で言い張り続けていたに違いないのです。それは、負債を帳消しにしてくださった主君=神様の赦しを受け入れられなかったということであり、赦されている自分を受け入れられなかったということでもあります。罪の深さを認める。赦しを受け取る。もしそうすることが出来たなら、彼は喜んで外に出て行き、自分の罪深さにもかかわらず、それを赦してくださった主君の素晴らしさを仲間にも伝えたことでしょう。そして主君にしていただいたように、自分も仲間の借金を帳消しにしてあげることができたに違いありません。

 神様に対するわたしたちの負債は莫大なものです。しかしイエス様が十字架の上で流された血潮の価値はわたしたちの罪を覆うにあまりある尊い血潮です。憐れまれ、赦されている者としての自覚を今日新しくして、互いに赦し合う経験を重ねる一週間を歩み出していきましょう。

 

 

210905 聖日礼拝説教  

 コリントの信徒への手紙Ⅰ 110節~17節 「固く結び合う

 

 

 

 


今日の箇所には、コリントの教会の中で起こっている争い・仲たがいの姿が露わになっています。当時のコリントは、アジアとローマの間の貿易で栄えた港町で、そこは船員や商人、職人や観光客などで賑わう観光の町でもありました。また異教の神殿が町の至る所にあり、様々な悪、不品行が行われていたのだそうですが、パウロは紀元50年頃このコリントに足を踏み入れて、イエス・キリストの救いの知らせを宣ベ伝えていきました。イエス様を信じた人々は、今のような礼拝堂は持たずにいくつかの家庭で集会を持っておりましたので、「教会」といいますが、家庭集会の集合体としてコリントの町に生きていたのです。「イエスこそ主である」と信じて洗礼を受けたクリスチャンたちが、町のあちらこちらに集まって礼拝し、イエス様の肉と血をいただく聖餐に与り、神様からの慰めと力をいただいてそれぞれの生活に遣わされていく。コリントの信徒たちはそのように歩んでいました。
 さて、彼らの中に「仲たがい」「争い」があったといいます。ある人は「私はパウロにつく」と言い、また、ある人は「私はアポロの弟子だ」とか「私はペテロにつく」と言い、また、ある人は「自分たちだけがキリストの真の弟子だ」と言っていたのだそうです。「仲たがい」とありますが、これはsci,smata「破れ、裂け目、分裂」という言葉です。一つにまとまっているものに破れ、裂け目が生じてしまうとき、そのままにしておけば傷口はさらに大きく深くなっていきますから、できるだけ早く、適切なやり方で繕い、直す必要があります。ここでパウロは、分裂の危機にあるコリントの信徒たちの目を、彼らのために十字架にかかってくださったイエス様へと向けます。わたしたち人間は、争い合う場合、互いに相手に焦点を合わせてしまうものです。狙いを定めるようにして相手の言葉や態度を突きながら、相手を攻撃するもので、そのような中で赦し合う、というのは大変難しく、争いは激しくなってしまうのではないでしょうか。
 コリントの信徒たちだけでなく、すべてクリスチャンは、自分の罪を代わりに担って十字架にかかられた「イエス様こそ主である」と信じ、告白して洗礼を受けた者たちですが、この洗礼という目に見える儀式が現わすのは、目には見えないけれども生きておられる主イエス・キリストとの結合なのです。神などいない、救いなど必要ない、と生きていたかつての自分が、洗礼の水に沈められるとき、十字架につけられたイエス様と結ばれて死ぬ。そして沈められた水の中から、復活のイエス様に結ばれた神の子として復活し、永遠の命を生き始めたのがクリスチャンであります。ですから、コリントの信徒たちも、わたしたちも同じく、イエス様との結び付きの中に生きる者たちであることを自覚し、絶えず、御自身との結び付きの中でわたしたちを生かしておられる主・イエス様に目を向け、心を向けて歩む必要があるのです。この肝心な一事を忘れるとき、すなわち、わたしたちの主であるイエス様から目を離すときに、教会は破れ、裂け、分裂してしまうことになります。
 パウロに「つく」とか、アポロの「弟子だ」と訳していますが、これは直訳的にいうならば、「わたしはパウロ『のもの』」、「わたしはアポロ『のもの』」という言葉となっています。彼らはイエス様ではない誰か、イエス様以外の何かに目を奪われているのですが、全くズレてしまっているのです。彼らは本来、「わたしのために十字架につけられて、わたしの罪を赦してくださった『イエス様こそが主』です」、そう告白した人たちです。「イエス様こそが主」。これは「わたしはイエス様のもの」ということです。わたしたちは誰のものでもありません。わたしたちは、十字架の上で御自分の命という代価を払ってわたしたちを贖ってくださったイエス様のものです。救いはイエス様のものであり、洗礼はこのイエス様の名による洗礼です。パウロは言いました。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ12:1)。すべてのクリスチャンに賜物として与えられる聖霊は、クリスチャンの目と口を主であるイエス様に向けます。パウロの手紙を読んだコリントの信徒たちは、きっと互いに争い合うところから、目を上げて自分たちを固く結びつけてくださった十字架のイエス様を仰いだことでしょう。パウロは「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と言っています。彼らを再び新しく結び合わせて一つにすることが御出来になるのは主イエス様ただ御一人です。主に立ち帰るとき、交わりに癒しと一致が起こされます。今週の歩みの中で、わたしたちもこの癒やしと一致を体験することが出来ますように。


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